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HISTORY

武蔵小杉のまちの歴史

徳川将軍の御殿、多摩川から水を引いた用水、いま地図に残る川の跡。武蔵小杉の足もとにある歴史をまとめました。

1608年〜1672年

徳川家康と小杉御殿

東海道が整う前、江戸と相模を結ぶ幹線は中原街道でした。その道沿いに、将軍が休むための御殿が置かれていました。

慶長13年(1608年)、中原街道沿いに「小杉御殿」が造営されました。広さは約12,000坪(およそ4万平方メートル)。将軍が鷹狩りや上洛の途中に立ち寄る、休憩と宿泊のための施設です。徳川家康もここを利用したと伝えられています。

御殿は寛永17年(1640年)に建て直されたのち、寛文12年(1672年)にすべて撤収されました。建物は残っていませんが、「小杉御殿町」という町名が今もその場所を伝えています。

御殿の近くで中原街道が直角に折れ曲がっているのは、敵がまっすぐ攻め込めないようにするための防御の工夫で、「カギの道」と呼ばれます。多摩川や周辺の寺も、同じく御殿を守る役割を担っていたと考えられています。

今も見られるもの 「カギの道」の直角のクランクは、今も小杉御殿町の道路にそのまま残っています。

1597年〜1611年

小泉次大夫と二ヶ領用水

14年をかけて多摩川から水を引いた大工事が、この一帯を米どころに変えました。

慶長2年(1597年)、多摩川沿岸を巡見していた徳川家康に対し、代官の小泉次大夫(こいずみ じだゆう)が新田開発と用水の建設を進言しました。工事は慶長4年(1599年)に始まります。

次大夫は自ら現場を指揮し、土地の高低を測りながら、川下から順に水路の底の高さを決めていきました。難工事の末、14年を費やして慶長16年(1611年)に完成します。

この用水は稲毛領と川崎領という二つの領地を潤したことから「二ヶ領用水」と呼ばれます。約60か村の田に水を届け、米の収穫量を大きく伸ばしました。

今も見られるもの 用水は今も中原区を流れています。分流の渋川沿いには遊歩道と桜並木が整備され、春の名所になっています。

1673年〜1953年

ふたつの「小杉駅」

小杉は江戸時代にも「駅」でした。そして昭和には、今とは違う場所に「武蔵小杉駅」がありました。

延宝元年(1673年)、小杉は中原街道の継立場(つぎたてば)、つまり人や荷物を次へ渡す宿駅として設けられました。当時の「駅」は鉄道ではなく宿場のことです。嘉永元年(1848年)建立の供養塔には「武州橘樹郡稲毛領小杉駅」と刻まれており、小杉が「駅」と呼ばれていたことがわかります。

時代は下って昭和2年(1927年)、南武鉄道が開業します。このとき現在の武蔵小杉駅の場所にあったのは「グラウンド前」という停留場で、近くにあった運動場(グラウンド)にちなむ名前でした。そして「武蔵小杉駅」は、そこから立川方面へ約400m離れた府中街道との交差点付近、今の中原区役所のすぐ近くにありました。

昭和14年(1939年)には東横線に「工業都市駅」が開業しました。周辺の工場で働く人のための駅です。昭和19年(1944年)にグラウンド前と武蔵小杉のふたつの停留場が統合されて現在の駅となり、昭和20年(1945年)に東横線の武蔵小杉駅が開業。駅が近すぎたため、昭和28年(1953年)に工業都市駅は廃止され、武蔵小杉駅に統合されました。

今も見られるもの 「中原区役所のあたりに昔は駅があった」という言い伝えは、この旧・武蔵小杉駅のことを指しています。

1724年〜昭和

等々力緑地は多摩川だった

東京都世田谷区と川崎市中原区に、同じ「等々力」という地名がある理由は、多摩川の流れが変わったことにあります。

現在の中原区等々力は、もともと多摩川が南に曲がっていたところに突き出した半島状の土地で、対岸の荏原郡等々力村(現在の世田谷区等々力)に属していました。

たび重なる洪水と、享保9年(1724年)に田中丘隅(たなか きゅうぐ)が手がけた治水工事によって、蛇行していた流れを直線化する大がかりな「瀬替え」が行われました。その結果、等々力の一部は川の向こう側に取り残され、対岸の飛び地になったのです。

残された旧河道の土地をめぐっては等々力村と小杉村が争い、宮内村が仲立ちして境界が定められました。その裁決の文書には、あの大岡越前守の名も残っているといいます。

その後、この一帯では砂利採掘が行われて池が点在するようになり、昭和30年代に埋め立てが進むのと並行して等々力緑地の整備が進められ、今の姿になりました。

今も見られるもの 等々力陸上競技場やとどろきアリーナが建つ一帯は、かつて多摩川が流れていた場所です。

参考にした資料

諸説あるものや、資料によって記述が異なる点もあります。詳しくは下記の資料をご確認ください。